|

応援団顧問
岡 則儀
我等が二高応援団(その2)
私が農大二高に奉職したのは昭和42年4月であった。当時は新入生に対し「入校訓練」というのが行われており、応援団が新入生を体育館に集め、学歌・応援歌・青山ほとり等の歌唱指導を行っている光景を目にした。
ハイカラーの学ランを着た応援団員が竹刀を持ち大声を張りあげての指導で、団長は4期生の六角敏三氏であった。当時の応援団幹部は校内で大変な有名人で、新米教師の私ですら幹部の名前は殆ど知っていた。秋の二高祭に体育館で行われた「応援団リーダー公開」は、それはそれは華やかなもので、大勢の観客で溢れかえった会場は熱い熱気に満ちていたのを今でもしっかりと覚えている。また、当時は応援団員が生徒会長などに立候補し(もちろん当選)生徒会行事等においても全校生徒をリードし活躍していた。
隆盛を極めていた応援団も、良い時ばかりではなく、一時期団員不足等で細々と活動していた時期もあったが苦境を乗り切り、竹内健初代応援団長が灯した伝統ある「灯」を消さないで何とか守り続けることができた。
昭和54年秋の県大会で、野球部が知将斉藤監督の采配の下、当時全盛を誇っていた宿敵前橋工業を延長17回という死闘の結果打ち破り、そのチームは勢いに乗り県優勝、群馬代表として出場した関東大会でも優勝を為し遂げたのである。
昭和55年春、昭和40年以来15年ぶり2回目の春の甲子園出場を果たし、野球部(高仁−清水のバッテリー)は東の横綱と騒がれ期待されたが初戦、残念ながら松江商業に敗退した。時の応援団長は17期生の砂長弘人氏(現前橋ロングサンドホテル専務)であり、甲子園の大アルプススタンドを埋めつくした何千人という観客並びに応援生徒の前で、堂々と力強く伝統のあるリーダー並びに新たに作られた応援マーチを繰り広げたのである。農大二高応援団にとって甲子園球場での華やかな応援とマンモススタンドでの一体なる応援の難しさの両面を体験できる素晴らしい機会が与えられ、それを糧として応援団の近代化が押し進められたのであった。
|